Tuesday, February 13, 2007

思考実験(パトリオティズム 1)

時代背景は、15年後の日本。
愛国心を教科書で習った少年たちが成人するころ、日本では何が起こっているか。

「大学では愛国心を演題とした講義ができる。
大学生たちは原理的に愛国心を論じ始めて、若干学生闘争的なことが起きる。」

みたいなことは普通に想像できるのですが、ストーリーがちょっと描けなかったので、地下鉄の中で考察しました。
構想20分。

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「愛国心」これを毛嫌いする世代は確かに多い。
しかし、政府はこれを良しとしなかった。
政府は国家の存続にかかわっている問題だと意識していた。

日本の国民性が、「無関心の自由」と「情報非局在化」によって一気に希釈された日本。
NHKの受信料不払いする若者のように、子供の給食費を滞納する親のように、
「ん?なんか問題あんの?」という意識の蔓延がとまらない。
国民年金の不払いが増え、福祉制度は破綻の一途をたどっている。
国家の借金はどうにもならなくなっている。

政府は、手詰まりになっていた。
そこで、2008年日本は憲法や教育基準法に「愛国心」の3字を入れた。
愛国心さえ広がれば、国のためを思い国民年金を納入するだろう。
愛国心さえ定着すれば、国債の徳政令を出してもだれも文句を言わんだろう。
すべての切り札は「愛国心」であった。

ただし、与党の「愛国心」法案化に対して共産その他から厳しい反発があった。
そのため、法案として成立するときには形骸化された「愛国心」という言葉のみ残ることとなる。
憲法9条以上に解釈の仕方がいくらでもある、どう読めばいいのかわからない法文ができあがる。
何がどうわからないかというと、具体的には、原理的な愛国心論議によって、「愛国心が戦争を呼ぶ」などという戦後世代を懐柔するために、「国を愛するのではなく、国民を愛するのだ」「プラクティカルな愛国心」といった謎の表現が使われ、愛国心が何を目指すかを示さず、ただ必要だといってみせる。
そう、そもそも手詰まりの政府が徳政令を出すために切り出した札が「愛国心」であったわけだから、そもそも理由など取ってつけたようなものだった。
ちょうど問題化していた教育問題に絡め、正常でない子供たちを正常にするには「愛国心」が必要とまで言って見せた。

愛国心に対する反発は、法案化の後、意外なほどすぐに違和感を失くし、忘れ去られた。
日本のよいところは、その柔軟性である。
ひとたび法整備されてしまうと、何なりと順応してしまった。
「表現の自由だけは奪われてはならない」と最後までウルサく叫び続けるマスコミを除いて。

続く

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