Friday, July 20, 2007

私の変な夢 I (階段からこける系)

1.階段から転がり落ちる
これは主に実家の階段ですね。最上段から勢いよく転げ落ちます。
時には、欄干から飛び降りたりもします。
顔面から着地するときに目が覚めます。

2.重力が反転している
これは、学校とか会社とか、うちとかいろんな場所を舞台にします。
開始時点からすでに重力が反転しています。
つまり、床が天井で、天井が床になっています。
学校や会社なのに自分しかいません。
電気は煌々とついています。
ほかの物体には重力が正常方向に作用しているので、机はひっくり返って落ちてきたりしません。
自分だけが天井をあるいています。
最終的には、探し回っても食べ物も何もないので、窓から空へ飛び降ります。

Thursday, July 05, 2007

不況高知(よさこいの考え方)

「よさこい祭りはどこの祭り?」というと、首都圏下の人々はこういう。
「そんなのどこでもやっている。日本の祭りだよね」

「高知はどこにある?」と聞くと
「四国の南のほう」と答える。
だが、「四国4県は何と何?」と聞くと
「愛媛と、徳島と、・・・香川と、・・・・・松山」
といったりする(もちろんほとんどの人はこういった間違いはない)

正答は念のために言っておくと、よさこい(夜さ来いと宛てたりする)祭りは高知を発祥とする。
元は徳島の阿波踊りを意識して作られた、戦後の復興のための祭りだった。
阿波踊りよりも音階(フレーズ)を意識して作られ、正調と呼ばれるメインテーマ曲は高知市の行川(なめかわ)出身者によって作曲されたという。
正調に宛てた踊りには、必ず「鳴子」という楽器を持ちそれを体の前で振りかざすことで音を出しながら踊るという、アフリカの民族舞踊にちかい「リズム」を意識したルールが持ち込まれた。

歴史的には50年を超える「文化」になっていたが、それがマンネリ化してはいない。
民衆の音楽とともに、踊りの音楽を変えていくスタンスをとったのは、保守的な日本の文化の中でも数少ない「文化」であった。
サンバやロックを吸収していき、踊りの形式も大きく変容していった。
櫓(やぐら)と呼ばれる、屋外大型オーディオをトラック後部に積んでバッテリーで駆動させ音楽を大音量で流しながら町を練り歩く、踊り子はその後ろをついていく形で踊る。
音楽の変容に合わせ、衣装も近代的なものを取り入れていき、和服をモチーフにしたきらびやかな洋服が大勢を占めていった。

元の阿波踊りの形はこの時点ですでになく、よさこいが脱皮をした瞬間ともいえる。


最近、サマーフェスティバル(サマフェス)と呼ばれる屋外型音楽祭が若者に広く受け入れられている。
この、サマフェスに対して注ぐ若者の熱気は、高知においては以前からあり、よさこいに向けられていた。
真夏の夜、あかあかとイルミネーションを撒き散らしながら爆音を鳴らして街中を踊る快感は、昔からある踊りの快感に近代の芸術の感性を交えて、大いに若者を充足させるものである。
さらに、高知では年寄りによる若者への抑圧が少ない風土がある。
むしろそういう暴れ馬的な出る杭を、ほったらかしにしてみようという、悪く言えば放任主義がある。

サマフェスを比較にあげたが、サマフェスの現象を見ると分かるとおり、音楽を基盤にしたこの文化はしっかり商業につながっている。
しかし、よさこいの場合そういう「商魂」、「プロ根性」、「金の感覚」がつきまとっていなかった。
これが、「よさこい=高知」の粘性を開放させた一原因である。
「よさこい」を日本各地で楽しめばよいという発想の元、各地でよさこいの類似品を許すというオープンソフトウェアに近い展開を広げた。
結果、近年数年では池袋、原宿、札幌各地でよさこいのモチーフが使用され、日本の夏を演出するようになった。
逆に、発祥である高知にはライセンスチャージ的な利益は何も残らない結果となった。

サマフェスにも、ビジネスに偏りすぎたものは音楽のフリークに受け入れられない傾向がある。
これは、音楽が至上であり、それそのものを楽しむためだけにサマフェスがあるべきという一種の思想から生まれる動きである。
しかし、もともとこのような考えがよさこいにあったとすると、先進的であったともいえるし、極度に偽善的であったともいえる。

サマフェスにかける意気込みというものは、視聴者だけが持つものではない。
むしろ、参加者、音楽発信者にとって、大きな舞台であり、音楽の高揚を一番得られる環境といえるこのサマフェスが持つ意味は大きい。
よさこいもそういうプロ意識を醸成する方向に発展すべきではないかと思ったりする。
つまり、音楽、服飾、ダンスで個性を主張しようとするセミプロを育成する場であって、それを支援する祭りであるというスタンスをとるべきではないかということである。
偽善的であるならば、とことん偽善に走り、いつしかそれが善になるということがあるだろう。
踊りという触媒によって、それがいろんな文化の通り道になり、形は変われど活性化する、これはもともとよさこいがもっていた文化をさらに昇華させる方向ではないかと思っている。